川村結花に初めて会ったのは1995年。彼女がデビューする直前のことだ。日本の音楽界にもこんな天才が現れたのか、と心から驚いたことをよく覚えている。


   あれから18年。早いものだ。つまり、考えてみれば彼女はけっこうな歳月をシンガー・ソングライターとして過ごしてきたことになる。当時、どんな曲がヒットチャートを賑わしていたかもすぐには思い出せない。ケータイ電話もインターネットもまだ珍しかった。流行していたサウンドも今ではセピア色に響く。ヒット曲に求められていたメッセージも懐かしい。その間、音楽業界の構造そのものは大きく揺らぎ、川村結花をとりまく環境も変わった。最近では売れっ子ソングライターとしての顔もすっかり定着。彼女自身の活動ペースも以前とはずいぶん違うものになってきている。


   それでもやっぱり川村結花は川村結花。変わらない。先日、何年ぶりかに彼女と会った時、しみじみ思った。どんなに久しぶりでも、つい先週会ったばかりみたいな気分で話しこんでしまうあったかさ。存在感。そして、相変わらずのオッサンのようなギャグ(笑)。年齢もキャリアも重ねて、風貌も考え方も昔とずいぶん変わっているはずなのに。ああ、ここにいるのは初めて会った時とおんなじ川村結花だ。いつだって、そう。だから、彼女と会える時はいつでも嬉しい。


   彼女の音楽も同じだ。曲と詞と歌声とピアノがひとつになった瞬間にもたらされる、あの、心を「ぎゅっ」と掴まれる感覚。彼女の音楽にはいつだって変わらずにそれがある。これまで彼女は自らの作品をさまざまなカタチで私たちに届けてくれた。すっぴんでTシャツのようなカジュアルな弾き語りスタイルの時もあったし、ゴージャスにドレスアップしたサウンドにくるまれていた時もあった。自分が作った服を年下の若いコに着せてみせたこともある。でも、どんな時も彼女の音楽はとびきり身近だった。大切なものであり続けてきた。それは、彼女が作り出す音楽の土台にある「ぎゅっ」という感覚のせいだ。


   川村結花と、ピアノと、五線紙と、ペン。それだけで綴られた8年ぶりのアルバム『private exhibition』。どんなに時代が変わろうと絶対に変わりようがないものだけで作られたアルバムだ。このアルバムができあがるまでの数年間、彼女はどんな風に歩いてきたのだろう。


   そんな話を聞きたくて、久々のロング・インタビュー。"private exhibition"=個展を開いた画家が、訪れた人々に自ら作品が生まれた背景をていねいに説明してくれているような。そんなイメージでお読みいただければと思う。


努力が足りないって思っていたのは、努力すればなんでも
越えられると思ってたってことじゃん!
と。そう思ったら、人生変わっちゃったんですよ。


——8年ぶりにアルバムを、しかも自主制作で作ろうと思うに至るまでにいろんなことがあったとか。この間ちらっと、その間に「考え方が変わった」と言ってましたよね。そのあたりの話から紐解いて聞かせてもらえたらなと。


「2008年の3月に父を亡くして。それが直接のきっかけではないんですけど。その、ほぼ1週間後に上田現さん(レピッシュ)が亡くなったんです。この世界で、曲を書いてピアノ弾きながら歌って、しかもマネージャーが同じで……。年齢的にも仕事でも先輩で、とても身近で、尊敬してて、大好きだった。そんな現ちゃんと父と、ふたりが同じような病気になって同じ時期に亡くなって」


——お父様が亡くなった時は、大阪に戻っていたんですか?


「父の時は、もう長くないと言われてからすぐ大阪に帰って。亡くなる前の2週間くらいは、ずーっと病室でつきそっていたんです。それで、その時に父が、看護師さんに私のこと"うちの娘です"って紹介して"東京で曲書いてますねん"って。それまでは私のこと自慢したり、そういうことをするのが大嫌いな人だったんですけどね。だから、亡くなった後も"あの時、初めて私のことを自慢したな"とか、"もっと大好きって言えばよかった"とか、ずっといろんなこと考えてしまって。で、大阪にいたんですけど、東京に帰ってきた日の2日後、現ちゃんが亡くなったんです」


——その時期の気持ち、想像するだけで苦しくなってきてしまう。


「私、そのあと、音楽ってものがまったく聴けなくなっちゃって。もう、歌っていう歌が、どんな歌を聴いても泣いちゃうっていう……コントロールがまったくできなくなって。もう、心に入ってくるものすべてがイヤだったんです。心をやわらかくするものすべてがイヤだった」


——「心をやわらかくするもの」を仕事にしてきた立場なのにね。


 「だから、音楽がいっさい聴けなかったし。そんなことがあるまでは私も、悲しいことやしんどいことって努力で越えられるものだと思っていたけど……」


——越えられないなら、越えられる気持ちを持つ努力をせねばとか。


 「そう。自分が越えられないのは努力が足りないことなんだと、そうとしか考えてなかった。でも、その頃に、そうじゃないのかなって。ようやくわかってきたというか。私はなんて傲慢だったんだろう、と。逆に言えば、努力が足りないって思っていたのは、努力すればなんでも越えられると思ってたってことじゃん!と」


——深すぎる。


 「そう思ったら、人生変わっちゃったんですよ。私」


——あ。このアルバムに歌われてることが、今、一瞬にして見えてきた気がする。


「そこで私、初めて"できないことはできない"と言えるようになったんです。それまでは"できない"って言うことはすべて"甘え"だという考え方だったし。心の傷を光に変えていくこと、それしか生きていくすべはないと思い込んでたし。それしか考え方の引き出しを持ってなかった。だけど"乗り越えていく悲しみ"があるなら、この世には"抱きしめてゆく悲しみ"っていうのもあるだろう、と。私はきっと一生悲しいだろうし、ならば、これを乗り越えようなんて思わなくてもいいじゃないか。それと共に生きていけばいいんだと。そう思えた瞬間、なんか、目が覚めたような感じになって。それからですね、だんだん音楽が聴けるようになったのは。できない自分をできない、と認めることが"許す"ってことなんだって生まれて初めてわかったんです」


私のことを知らない人も、私の作品を歌ってくれる。そんな作品を書く仕事が、私の適職。
で、自分の曲を自分で歌うことが天職。


——作家としての楽曲提供が増えてきたのも、同じ頃ですかね。


「時期的には近いですけど、始めたのはまだ父の存命中ですね。でも、すでに具合が悪くなって、私もしばらく大阪に行きたいと思っていたような頃で。ちょうど、自分の進路で悩んでいた時でもあるんですね。定期的にライブはやっていたけど、ちょっとルーティン・ワークっぽくなっていて。それで、ライブ以外の時間を有効に使おうと思って。とりあえずやってみようかと。それまでは"作家"という仕事に対して、そんなに積極的に考えたことはなかったんですけど。事務所に、作詞も作曲もやるからそういう仕事を入れてほしいと頼んだんです」


——それからすぐ作家としても忙しくなっていったんですよね。


 「2年目くらいからですかね。もともとは、そんな深く考えずに始めたことだったんです。でも、やってみたら、1日中ずーっと音楽のことを考えていられるんですよ。こんな楽しいことないですよ。なんでもっと早くやらなかったんだろうって。で、2008年の暮れぐらいからファンモン(FUNKY MONKEY BABYS)の楽曲制作に携わるようになったんです。」


——そういう流れだったんだ。


「彼らの曲がヒットした後、もうひとつ、自分の中で大きな出来事があったんです。当時、ファンモンの代々木体育館でのライブに行ったら、カーテンコールの時に会場中が<あとひとつ>の大合唱になったんです。本人たちはいなくて、ビデオだけが流れている場面で。その時に"あ!"って、思ったんです。今、この会場にいる1万人くらいの人たちは、誰ひとり私のことを知らないかもしれないけど、全員がこの曲を知っているんだ……と。そう思った時に、私の役目ってこれなんだと気づいたんです。"適職"と"天職"というものがあるとしたら、私の"適職"はこれなんだと。私のことを知らない人も、私の作品を歌ってくれる。そんな作品を書く仕事が、私の適職。で、自分の曲を自分で歌うことが天職。その時、自分の中のスイッチをパチッと切り替える方法がわかったというか」


——ひとつのものを使い分けるのではなく、自分の中に両方あるんだと。


「人に書いた作品はどんどん売れて欲しいし、売って欲しい。私もポップなものは大好きだし、望まれた曲を書くし。けど、私自身は自分が自分で表現すべきだと思うことだけをやって、それを必要としてくれる人が聴いてくれる音楽をやりたい、と思うから」


——好きなことしかやりたくないシンガー・ソングライターと、自分の腕ひとつが勝負の職人と……。昔から、その両方を持っているのが"川村結花"だと思っていたから。今、両方をマックスに生かす道を見つけたんだなぁと思ったら、すごく嬉しくなってしまった。昔は、その両面を1枚のアルバムの中に入れたりもしていましたよね。


「誰それに提供した曲のセルフカバーで、できればご本人からのコメント頂いて……みたいな。メジャー・レーベルであればそうあって然るべきだと思うんですが、今回は全曲、自分で表現したくて書いた新作だけにしたかった。で、だったら自主制作で作ろうと決めたんです」


アルバムの中には自分が思っていないことは一行たりとも、一語たりとも、一音たりとも書いてないし。好きじゃない音も一切使っていない。


——では、いよいよアルバムのお話を。


「もともと、ライブのために曲を書いたことから始まったんです。これをまとめてアルバムにしよう、なんてことも考えずに。ずっと、年に1、2回は東京と大阪でライブをやっていたんですけど。父のことがあったりで、1年くらいライブをやっていない時期があったんですね。で、久しぶりに青山MANDARAでやるっていう時に、"1年やらなくてごめんね"っていう、いわばあいさつみたいな曲が作りたいなと。みんなもちろん、父が亡くなったことも知っているし。心配しながらも待っていてくれたから。"私、今はこういうことを言えるようになったんだよ"という、そういうことを話しかけたいなと思って。それで書いたのが<ひさしぶりだね>という曲なんです。それから、"いろいろあったけど、これからが私も人生後半だわ"って思った時にできたのが<後半もお楽しみに>という曲。まず、その2曲を作ったんです」


——今、ここまで話してくれた日々のことがアルバムの中に入ってるんですね。


「人生、どんなことがあっても、夢見る心に勝る高揚感はない……と思うんですけどね。ふと気づいたら、私、しばらくそのことを忘れてたなと。曲を書きながら、ちょっとずつ思い出していった感じなんですね。で、その2曲と今までの曲をまぜて、しばらくライブをやっていたんですけど。去年、ギターの石成(正人)くんとか、パーカッションのタマちゃん(玉木正昭)とか、レピッシュのtatsuくんとか、昔からの音楽仲間が久しぶりにバンドでライブやろうよって声をかけてくれて。嬉しかったんだけど、せっかくバンドでやるなら新曲書きたいわって思って。で、半年ちょうだいって言ったんです。その間に、ライブ1本できるくらい新曲書くからって宣言して。それで書いた曲が、今回、ほとんどここに入ってます。ずっと書きたいと思っていたけど言葉にできなかった、この5年くらいの思いが<歌なんて>という曲になったり……。すべて、自分の中でまったく無理することなく書いてきた曲ばかりです」


——最初に1曲目の<歌なんて>を聴いた時、息が止まりそうになった。ずっと歌を書いて歌ってきた川村さんからこんな曲が出てくるなんて、と。


「私がしんどかった時期の2年後、震災があって。その時に私も、ライブをやって欲しいとか言われたんですね。でも私自身、自分がいちばんしんどかった時には音楽なんて一切聴けなかったから。今、この震災で、絶対そういう人はたくさんいると思ったんです。私が味わったような気持ちでいる人がいる限り、私はそこに言って歌なんて歌うことはできないと。逃げでも何でもなくて。その頃すでに自分の"役目"ということについては感じていて。私は残念ながら影響力もないし、"頑張ろう!"と歌うことでみんなを元気にできるような人間ではない。だけど、そうやって"頑張ろう!"って歌うことで人々に影響を与える、たとえばファンモンのような人たちに歌ってもらう曲を書くことはできる。だったらその思いは、彼らに託そうと。そういう人たちのためにせっせと曲を書くことが、その当時もっとも自分のやるべきことだと思ったから。」


——私は、この曲を聴いて震災の時を思い出したけど。それも間違いじゃない、ですよね。


「それはもう、それぞれの受け止め方をしてもらえたら。曲を書いたのは震災には全然関係なく、父と現ちゃんを亡くしたことから始まって、今までの自分がどう歩いてきたかをどう表現すればいいだろう……という個人的な思いからできた曲ですけどね」


——川村結花が「歌なんてなんの役に立つものか」とまで歌うほどの、どれだけの絶望があったのかと考えると涙が出そうになったけど。でも、同時に、それを今こうして歌にしているってことは、そこから抜け出したんだろうなとも思いました。


「本当に、この曲さえ表現することができたらいいという、そんな思いで書いたんです。で、いちばん最初に聴いて欲しいから、1曲目にしたんです。」


——自分がこれまでやってきたことや、信じてきたことを全部リセットしてもいい。もしかしたら「川村結花」という存在そのものが消えてもいい。と、覚悟をした上で自分をまっさらにしたら、そこから新しい音楽が溢れてきた……みたいな、そんなアルバムなのかなと思いました。勝手な思い込みだけど、それくらい決意を感じました。


「やっぱ"全裸"って感じですか(笑)」


——うん。どうやら、やっぱり全裸ですね。


「よかった!」


——これを読まれる方々に説明が必要ですよね(笑)。あの、アルバム完成した時に川村さんが《「わたしとピアノと五線紙とペンだけで出来るめいっぱいのこと」をやってみよう!と思ってやってみました》というメールをくれて。それ、シンガー・ソングライターにとっては裸一貫みたいなことだなと思って。私が《川村結花、全裸だな!》って返信したんですよ。


「最初に能地さんに"全裸だな"って言われた時に、ホントにそうだなって思った。あっ、私、ストリーキングやってもうた!って」


——"ストリーキング"って言葉、久しぶりに聞いたなー(笑)。


「変態じゃないんですけどね(笑)、見るなら見ろーっ!みたいな気分。これを嫌いなら嫌いと言っていい。でも、これが今の私なんだ!という。今、その気持ちをきちんと表現しないことにはダメだ、と思ってたから」


——もしかしたら、ストリーキングする以上の勇気がいることをやっちゃったのかも。


「でも、だからといって無理はしたくなかったんです。とにかく、今回のコンセプトは"無理なく"なんです。身の丈に合わないことはしないぞと。身の丈に合った服を着て、身の丈にあったことを言って、歌って、大きくもなく小さくもなく生きていきたいなと。だから、アルバムの中には自分が思っていないことは一行たりとも、一語たりとも、一音たりとも書いてないし。好きじゃない音も一切使っていない。そこは確信を持って言えます。」


もし何もかも失っても、私、ピアノがあれば生きていける……いや、たとえピアノがなくても、五線紙とペンがあれば生きていける


——ピアノと五線紙とペンだけでできることを、歌とピアノだけで表現する。実際にやったのは初めてだけど、川村さんって昔からそういうイメージはあったな。


「震災の後、これからどうなるんだろ、どうしたらいいんだろうって考えていた時に、ふと、もし何もかも失っても、私、ピアノがあれば生きていける……いや、たとえピアノがなくても、五線紙とペンがあれば生きていけるなって思ったんです。そしたら、肝が据わったんですよ。そんなことを考えてる自分を、私ってやっぱり叩き上げだなぁと思いつつ。あ、ちなみに歌とピアノはどう思いました?」


——たぶん、ふつうなら少しピッチを直したり、歌が揺れてるところを直したりとかしたくなりそうな箇所もところどころありますよね? でも、直していないとこが好きです。逆に、直ってないところでグッと来るポイントが多いです。


「わ、そう言ってくれます? 嬉しい。聴く人によっては"こいつ、ピッチ悪いなぁ"とか"ピアノずれてるじゃん"とか思うかもしれないけど。そこはあえて」


——川村さんのような"やればできる子"がやらないっていうのは、あえてやらないってことだなと。言葉の中にある感情が揺れると、ピアノも揺れたり……。


「最近よく思うんですけど、大きな音を出せば人に届くってものじゃないんですよね。ピアノだって怪力で叩けば響くってもんじゃなく、音量の大小に関係なく"響く"と感じる音があるわけで。もちろん技量の問題でもあるんですが。それ以上に、その人がどういう人なのかっていうことが音に出るんだろうなと。どんだけバリバリ弾きまくるよりも、たった1音♪カーンと鳴らした白玉(全音符)が人を泣かせるような。私は"魂の白玉"と呼んでいるんですけど、そんな白玉を弾きたい」


——でも、さすがに全曲ピアノだけで作るサウンドに心細さはなかったですか?


「考えてみたら私、全曲ピアノ一本だけでアルバム作ったことがないんですよ。最初はどうしようかなって思ったんです。サックスとかパーカッションくらいは入れてもらおうかなとか。でもやっぱ、今回はすごくパーソナルなものにしたかったし。だったら、いちばんミニマムな形でやってみようかと。それで、エンジニアの(松本)大英さんにも"無人島に大英さんと私とピアノしかないと思って作り込んでね"って言ったんです。聴いていて物足りなくなかったですか」


——ぜんぜん。


「ピアノ一台、曲によっては二台重ねてるのもありますけど。あと、今回はコーラスも<25>という曲で、ちょっと♪アーとか♪ウーとかやってるくらいで。最初はもうちょっと入れるつもりだったんですけど、やってるうちにどんどん、コーラスはいらなくね?と」


——ピアノと歌の響きの美しさが、何よりも贅沢に感じます。


「それはもう、大英さんの力です。最初は、ピアノと歌だけならそんなに大変じゃないよって言ってたのに、ある日突然、私の歌とピアノ聴いてた大英さんに何かすごいスイッチが入っちゃったみたいで(笑)。マイクとかセッティングにすっごい凝りだして。あーでもない、こーでもないって試行錯誤しながら"ピアノと歌ってこんなに深かったのか"って言ってました。大英さんいわく、私の声もピアノも、何か足したり引いたりしないで、そのまま録るのがいちばん最高の状態だって。だから、それを生かすような音で録れるように考えるのがオレの仕事だと言ってくれて」


——画家が自画像とか、奥さんや恋人をずーっと描き続けている連作を展示した個展みたいな感じですね。ひとつのものを見つめつづけている絵。


「本当に、自分以外のものは何もない自画像みたいな作品ですから。同じようなことを、大英さんにも言われました。"これ、すべてが川村すぎる"って。大英さんは私のすごく近くにいて、私のことをよく知っている人だから、よけいにわかるんですよね。ここまで言っていいのかなぁ……とか。あ、それは実体験うんぬんの話ではなくて。私の感情の部分でのことなんですけど。私そのものの感情が、そのまま出ているって言われました。そういう"自画像"だけを集めた個展だから、タイトルも『private exhibition』。たとえば広告とかいろんな仕事をしているイラストレーターの人が、何年かにいっぺん自分の作品の個展をやるじゃないですか。まさに、そういう感じだと思ったんですね」


——ああ、今日はすべてが腑に落ちてしまった。アルバムを聴いた時の気持ちを、そのまま言葉にして通訳してもらった気がする。


「本当に川村、マッパダカだったなーと思いました?(笑)」


——うん。シンガー・ストリーキング・ライターだねぇ。


「でも、ホントにそんな感じですから。ピアノと歌だけ、何の言い訳もできない音楽」


——でも、本当に、このマッパダカが嬉しいです。ついにやってくれたんだな、と。こんなアルバムがいちばん聴きたいと、ずっと思っていたから。


「若い人たちが元気になれるような曲を、他の人たちのために書いている自分も全然ウソじゃないし、大好きだし。けど。シンガーソングライターの自分としては、時々ガマンできなくなって脱いじゃうんですね。ありのままの自分を、そのまんま出したくなる。うん、そうだ、今年の私は、ものすごく脱ぎたかったんだなぁ。ストリーキングしたかったんですよ!(笑)」


——えーと、なんかもうちょっとキレイな言葉でまとめときます?


「いいです。そのまま書いてください。ホントに、それが私って感じがしますもん」


——<歌なんて>を歌ってる川村結花も、レコード大賞で賞を貰っている作曲家の川村結花も、今ここでストリーキングとか言ってる川村結花も。全部おんなじ人なんですよね。


「そうなんですよ。たまにストーリーキングする作曲家、とか言われたりして(笑)」